長田家の朝は、だいたい静かだ。
目覚まし時計が鳴るよりも少し早く、カーテンのすき間から光が差し込んでくる。
そんな時間に、いちばん最初に目を覚ましたのは――灰色の猫、こむぎだった。
「……あ、もう朝だね」
まだ眠そうな目をこすりながら、こむぎは布団の上でころんと寝返りを打つ。
本当はもう少し寝ていたい。でも、今日はなぜか胸の奥がそわそわしていた。
理由は、はっきりしている。
「早起きすると、いいことがあるって聞いたんだね」
どこで聞いたのかは、本人もよく覚えていない。
たぶん昨日、長田家の誰かがそんなことを言っていた気がする。
三文が何なのかも、正直よく分かっていない。
――天の声:三文はお金です。こむぎ、たぶん現金はもらえません。
「でも、いいことなら…あるよね」
こむぎはそう言って、えいっと布団から飛び降りた。
着地は少し失敗して、前足がすべった。
――天の声:朝からドジ。いつも通り。
それでも気にせず、こむぎは台所へ向かう。
床はひんやりしていて、朝の匂いがする。
まだ誰も起きていない時間。冷蔵庫も静かだ。
「おはよう、台所さん」
もちろん返事はないけれど、こむぎはにこっとした。
こういう誰もいない時間が、けっこう好きだった。
窓の外を見ると、空はうすいオレンジ色。
鳥が一羽、電線にとまっている。
「きれいだね。早起きすると、空もやさしいね」
――天の声:それは確かに徳かもしれません。
そのとき、背後で小さな物音がした。
振り返ると、長田家の人が眠そうな顔で立っている。
「…おはよう、こむぎ」
「おはようだね!」
しっぽをぴんと立てて、こむぎは駆け寄った。
その勢いで、スリッパにつまずいた。
――天の声:さっきからずっとつまずいています。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶだね。ちょっと床がびっくりしただけだね」
意味はよく分からないけれど、こむぎは平気そうだった。
長田家の人は、くすっと笑って、こう言った。
「早起きだね。えらいな」
その一言で、こむぎの胸がぽわっとあたたかくなる。
「ぼく、早起きは三文の徳って思ったんだね」
「へえ、そうなんだ」
「三文がなにかは、まだ分からないけどね」
――天の声:正直でよろしい。
朝ごはんの準備が始まる音を聞きながら、こむぎは足元にちょこんと座った。
まだ完全に目は覚めていないけれど、心はとても満たされている。
早起きしたから、きれいな空を見られた。
早起きしたから、やさしい声を聞けた。
それだけで、もう十分な気がした。
「三文って、たぶんね」
こむぎは小さくつぶやく。
「こういうののことだね」
――天の声:たぶん、それで合っています。
こうして、こむぎの一日は静かに始まった。
特別なことは何も起きていない。
でも、少しだけいい朝だった。
それが、こむぎにとっての「徳」なのかもしれない。